<絵>と<文>でつづる垣根越しの相撲観

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アクセスカウンターは2005.2.3より設置
HPは2003.1.20に開きました
本宅HP

<解説>

1982年6月から1985年6月まで丸3年間、足かけ4年あまり、当時の相撲部屋
36軒
を訪れ取材して書いた訪問記です。読売新聞の「読売大相撲」と言う雑誌
に載っていました。
私の任期後、亡くなられたニュースキャスターの<久和ひとみ>さんが次にイン
タビューしていましたね。彼女の仕事の下地になったかどうかは本人に聞いてお
りませんのでわかりませんね。
少しずつアップしますので、ぜひご覧ください。


36部屋有りましたので月刊誌として丸3年かかったと言うわけです。編集者が
相撲博士の様な人で、データーを重視するのですね(私の取材を無視する?)
また、語り口調が文語体でして、私の平易な言葉が結構直されるわけですよ。
かなり抵抗しました。この中から、自分の言葉が尊重されている文を優先して
ぼちぼちできた順に載せて行きます。

尚データー化には<田宮陽子>さんに大変お世話になりました。
お忙しい合間をぬってキーボードを打っていただきました。この場お借りして
お礼を申し上げます。ありがとうございました。(2003.1.20記)

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<内容>


20年前の事ですが、私が
文章を書いてイラストも載せている物としては代表的
な物ですのでみなさまにも見ていただきたくHPに載せました。
イラストレーターが文章を書き絵を描く仕事は相撲記者として認められてなく
て閉鎖的な相撲社会の中で働くのはかなり勇気のいるものでした。
事前にアポ
を取るのですが、これが大の苦手なのですね。
電話の前で1時間も手を受話器にやったり引っ込めたりを繰り返すのです。
怖いのです。電話でアポを取ることもそうですが、相撲関係の人とまるで関係
のない所にいましたので
とても怖い感じがしましたね。
全ての相撲部屋を部屋の中で取材したわけではありません。
巡業の時は主に街の人に取材してその様子を書きました。また、
<宮城野部屋>
のように奥さんとお嬢さんに取材をお願いしたところも有ります。



また、座敷で稽古を観戦していて<ふと今日の昨日のスポーツ紙で部屋の力士の
名前が載っていたので確認していると>「(神聖な)稽古場で新聞など読むな」
と注意されたことも有りました。
二代目若乃花の様に、なんだか相撲部屋と言うよりか、
ちょっと違った筋の事務
所の様な感じの所も有りました。女将さんが一所懸命事務をしていて、私は関係
者から<相撲記者>じゃない事をとがめられました。

今日(03/1/20)引退した貴乃花は当時まだ小学校4年生で162センチの私を
見上げるぐらい身長は低かったです。でも横はすでに私の2倍は有りました。

白いっぱいの目
を私にくれました。(にらまれた)
また、TV等で解説者が「この力士は良く稽古するしね」と言いますがあれは普通
に聞くと、稽古をしない怠け者がいるように聞こえますがちょっと違います。
<申し合い>と言う稽古の方法では、
勝った者が次の対戦相手を指名できるので
す。要するに勝てる強い者が稽古できるのですね。


部屋の中には、私に<ちゃんこ>を勧める部屋」もありまして、朝4時起きで
家を5時ぐらいに出る私にとっては天国のような物でした。実は夜型の私は夜中の
1時過ぎないと寝られないのです。こうなるとほとんど徹夜状態で仮眠ですね。

あれは本当にとてもうれしくありがたい物でした。しばらくして理由が分からな
いのですがなんかきな臭い感じで亡くなった<大鳴戸親方>の部屋では維新力と
一緒に食べさせていただきました。

(大鳴戸親親方-板井や維新力を育てた、元高鉄山--解説がハッキリしていて素人
にもとてもわかりやすかった。わたしは彼の性格がだいすきでした。
八百長がらみの告発かなんかで事件に巻き込まれたように今でも私は思っているの
ですが、素人にとっては、なんだか不自然と感じる死に方を病院でしたように感じ
ます。確か亡くなったのは人は彼一人では無かったのですよね。・2005.2.2追記)



豊山の<湊部屋>ではとても若いお相撲さんと一緒に鍋を囲みました。
(湊富士だけが、取り的で、あとはみんな子どもでしたね。4人くらいで食べた記憶
があります、なんか強い力士がいる部屋より楽しかったですね。・2005.2.2追記)

魁皇の親方で師匠 友綱 隆登 (ともづな)が元関脇 魁輝(か いき)なんですが、
部屋に行った時、食べさせていただいた記憶があるけど、 魁輝が目の前に座って
いて偉そうにしているから食べた味を覚えていないのですね。彼は私より一つ下
なのですが、ま、私はお客でないので仕方なかったですね。そのときの先代友綱
親方はとても小さい人で驚きました。魁輝が大きかったんですね。


そのころの力士で現在いるのは、<大善>でしょうか、彼がまだ幕下でしこ名は
高橋か高橋山でしたが、そのとき、ちょうど彼が休場していたのですね。二所の関
部屋に取材に行った時にちょうど彼とお話できました。稽古が終わっても練習に参
加できない休場中の彼は廻しをと取って上がり座敷に腰掛けていました。それを写
真に撮って
「アサヒカメラ」応募したんですね。2位になりました。賞金一万円と
富士フイルムいただきました。
タイトル「休場」。縁起があまり良くないので勝負
師の彼には伝えていません。03/1/20記_写真参考(大きくみられます)

大善引退2003.3.21。「お疲れさまでした。」(3.22記)


1985.4月号
アサヒカメラコンテスト
自由写真2位入選:選者柳沢信
休場

池田雅彦(東京・港区)
ニコンF3・28〜50F3.5・ネオパン400
絞りF8・ート・オート

これはなんとなく不思議な写真だ。一見して相
撲部屋のシーンだと分かるのだが、まるで昼間
の銭湯にみえてしまうのだ。しばらくみていた
ら理由がわかった。
力士がフンドシをつけてい
ないからなのだ
。相撲部屋の日常風景をさりげ
なく写すことで、どことなくユーモラスでのん
びりした画魔になった。皆が必ずねらう激しい
けいこの場面から目をそらして、スナップした
ところが面白いとおもう。(柳沢信)
当時、私は・オリンパスのOM1・を使っていました。ある時友人と
富士山に登って高山病にかかってしまい、帰りのバスにカメラを
忘れてしまうのですね。朦朧としながら「富士急バス」に電話し
ても応対がとても感じわるくて、そのままです。仕方無く、
・ニコンF3・に買い代えました。

私は、カメラマンじゃなかったのですが、プロのカメラマンの様な装備を持っ
ていました。当時の仕事先(読売大相撲・
エドア企)の要望が有りました。
暗い相撲部屋の写真の撮り方も心得ていました。
「ちょっとかして
くれ」と言うわけですね。
3年間の仕事の途中から写真フイルム代も出していただいたという事もあり、
深く考えずに撮った写真を預けました.

後で気が付くのですが、私の取材したところとは全く違う他人の文章に、随所に、
「私の撮ったイラスト
資料用の写真が」使用されていました。わずかな写真代
実費で気楽に貸したのですね。了解した覚えは20年以上たった今では定かでは
ありませんが、撮影者の名前の記載はありません。勿論撮影料もいただいた記
憶は全くありません。今から考えると、貴重な写真を「かして
くれ」で使用す
るには使用料が必ず発生するはずです。

相撲記者は撮影者と文章を書く人は勿論別々です。また、一人で訪問取材を
して文章とイラストを描くと言う人はそう多くいませんでした。当時相撲の
記事を書いていた人はお年寄りか、相撲博士の様な堅い青年の様な人がいまし
た。何となく普通の視点からみた<相撲記者でない>イラストレーターの取材
はちょっと斬新だったかもしれません。それ故、私の後にニュースキャスター
の<久和ひとみ>さんの仕事のにつながるのですが、私の時には、ま、いわば
「たたき」の様なものだったのでしょうね。今にしてみれば
文を書いて、イラ
スト描いて、写真撮って、そして、ッ無料で写真を使われてと、かなり「お得
な仕事人」だったようです。
(2005.1.30追記)